はじめに
第4回の今回は、かの有名な軍師・竹中半兵衛の子孫がどうなったのか?何をしていたのか?についてご紹介します。
竹中半兵衛(重治)といえば、戦国時代に豊臣秀吉の配下で、戦術家いわゆる軍師として活躍した武将です。当時、秀吉のもとには、もう一人の天才軍師・黒田官兵衛(孝高、如水)も仕えており、二人を称して、「二兵衛」といわれるほどに優秀だったと伝わります。ただ、半兵衛の功績の多くは、過去の創作によるものも多いとされ、謎に包まれた人物でもあります。
半兵衛の子孫は、旗本になっていた
さて、その半兵衛の子孫はどうなったのでしょうか?そして、何をしていたのでしょうか?結論から言うと、半兵衛の子孫は、江戸幕府の旗本として幕末・維新期も存続していました。半兵衛の死後、その子・重門は、関ヶ原の戦いで最終的に徳川家康方の東軍につき、以後竹中氏は徳川幕府において5千石の大身旗本として江戸時代を生きていきます。半兵衛の子孫は、脈々と命をつないでいたのです。
幕末の当主 「軍師」竹中重固
さあ、江戸時代も終焉差し迫る幕末期に、この竹中家の当主となったのが、竹中丹後守重固(号、春山)です。重固は、文政11年(1828年)に竹中氏の分家・竹中彦八郎(元幸)の子に生まれます。万延元年(1860年)、数え33歳で本家・竹中黄山(重明)のもとへ養子に入り、文久元年(1861年)に家督を相続。大身旗本・竹中家の当主となります。その後暫くは、幕府の職には就いていませんでした。
しかし、元治元年(1864年)5月に大番組頭に就任してから、出世街道を急速に駆け上がっていきます。そして、最終的には、慶応3年(1867年)10月26日に若年寄並陸軍奉行に就任しています(陸軍奉行は元治元年⦅1864年⦆10月に続き、2度目の就任)。以前は慣例として譜代大名の中から任命されていた若年寄に、旗本ながら抜擢されていることからも、幕府終焉期の格式にとらわれない能力重視の人材登用の様子が伝わってきます。任用の裾野が広がり、数多の人材の中から選ばれた重固は、やはり一定の評価を得る優秀な人物であったことが分かります。
なんといっても、ここで注目すべきは、重固が先祖・半兵衛と同じ「軍師」たる陸軍奉行を兼任していることです。これは、奇しくもというべきか、はたまた将軍や幕閣たちの粋な計らいなのか、実際のところはわかりませんが、いずれにせよ重固は、巨大な軍師・半兵衛の影を背負って、この任に当たることになります。重固本人としては、どんな心持ちだったのでしょうか?偉大なご先祖様に孝行できることに大いに喜び勇んだ気持ちと、周囲からの過大なまでの期待に気圧されるような気持ちとで、板挟みの心境にあったことは想像に難くありません。

先祖・半兵衛の背中は遠く
軍師・重固の真価を試すタイミングは、すぐにやってきます。慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いの開戦直前、重固は旧幕府軍の伏見方面の総指揮官として旧伏見奉行所に陣取り、薩摩軍と対峙していました。夕方5時頃、鳥羽方面で戦闘が始まり、その銃声を合図に伏見方面でも戦闘が始まりました。その時、重固は部隊の手分けをしており、その最中に敵方から奇襲を受けたようです。この奇襲に重固は狼狽します。
夜になると、薩摩方が放った火により、奉行所の建物も燃え始め、薩長兵が突入してきました。旧幕府軍は、町中に散り散りになりながら、市中戦を繰り広げました。重固も守備隊に囲まれながら、淀川河畔まで退却し、しばらくは指揮を執っていました。
しかし、混戦の中で、指揮系統は乱れ、連絡も滞り、思い通りに軍を指揮することができません。ついに明け方近くになり、重固は「淀城本営で評議する」と言って戦闘中の兵を置き去りに退却してしまいます。その後、重固が淀から戦場に戻ることはありませんでした。
主君・慶喜を追う形で江戸に帰還した重固は、この戦いの不手際を責められ、免職の上、差控えを命ぜられてしまいます。養父・黄山からは一族の存続のために勘当され、朝廷からは「戦犯」として官位を剥奪、竹中家は家禄5千石も没収されます。伏見での不始末の代償は大きかったのです。
その後、主君・慶喜は上野・寛永寺で恭順謹慎に入り、4月には江戸が無血開城されました。重固は、伏見での失敗の不名誉に耐えきれなかったのでしょう、浜田藩からの脱藩者ら300余人から成る「純忠隊」を組織し、上野戦争に参戦、新政府軍に抵抗します。しかし、そこでも敗れ、以後重固は東北各地を転戦します。
ついに、同じく旧幕臣の榎本武揚に合流し、蝦夷地に渡り、蝦夷共和国(箱館政権)の一員となります。箱館政権の中で、重固は海陸裁判所頭取に就任します。かつての戦闘での指揮の不手際が人選に響いたのでしょう、以前のような軍師としての役職に就くことはできませんでした。結局、その後も重固は、先祖・竹中半兵衛と同じような軍師として才能を花開かせることはできなかったのです。
明治期の重固
やがて明治2年(1869年)の箱館戦争の終結直前、重固は蝦夷地を脱出し、英国汽船で東京へ戻ります。そして、5月28日、養父・黄山の薦めに従い、新政府に自首しました。8月には、死一等を減じられ、身柄は福岡藩黒田家に預けられました。この仕置きには、かつて戦国時代に先祖・半兵衛が、「二兵衛」のもう片方の黒田官兵衛の子・松寿丸(のちの黒田長政)が信長に殺されそうになった折、自領(現・岐阜県垂井町)に匿ったという旧縁が考慮された、これまた粋な計らいがあったようです。その後、重固の身柄は、再び養父・黄山の預りに戻されました。ちなみに、養父・黄山に対しては、改めて300石が与えられ、竹中家は家名断絶を免れました。
明治5年(1872年)に、正式に赦免された後、重固は、養父・黄山とともに北海道の地に渡り、開拓に従事します。この時、開拓民の窮状を憂い、北海道殖産興業に関する建白書を新政府に提出しています。多くの士族が開拓民となった北海道に再び渡ったというのも、あの伏見の戦いや上野戦争、東北での転戦、そして箱館戦争での日々が脳裏に焼き付いており、あの時に力及ばず救ってやれなかった同僚や部下たちへの贖罪の気持ちがあったからかもしれません。そう考えると、歴戦で年輪を重ねた重固から醸し出される、情に厚い人柄や、先祖・半兵衛のように軍師として功を成せなかった代わりに、何か自分のできることで仲間に貢献しようとする律儀な性格が感じられるような気がします。
その後、明治6年(1873年)重固は再び東京に戻り、東京府に出仕するなど、なおも精力的に活動しました。そして、明治24年(1891年)に64歳で亡くなります。重固は今、東京都港区高輪の泉岳寺に眠っています。
おわりに
今回は、「軍師・竹中半兵衛の子孫がどうなったか?何をしていたか?」について、幕末の当主・竹中重固を中心にご紹介しました。重固の人生を振り返ると、先祖・半兵衛の威光がプレッシャーになっていた半面、要所要所で重固を助け、後押ししてくれたことが分かります。それほどに半兵衛の偉功が後世まで高く評価されていたことの証だと思います。
残念ながら、重固は、先祖・半兵衛のような軍功を上げることはできませんでした。しかし、その失敗と挫折が、彼に人間としての深みを与え、ご先祖様とは違った形で仲間に、そして社会に貢献することができたのだと思います。
それでは、今回はここまで。次回もお楽しみに!
【参考文献】
・安岡昭男編、「幕末維新大人名事典【下】」、新人物往来社、2010年
・竹内誠・深井雅海・太田尚宏・白根孝胤編、「徳川幕臣人名辞典」、東京堂出版、2010年
・野口武彦著、「大江戸曲者列伝 幕末の巻」、新潮社、2006年
・「柳営補任」
・大石学監修、「ビジュアル幕末1000人」、世界文化社、2009年
・松田敬之著、「<華族爵位>請願人名辞典」、吉川弘文館、2015年
ほか
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