さて、第2回目の今回は、最後の将軍、徳川慶喜は幕末当時の観点からしても「イケメン」だったのかについてご紹介します。
慶喜といえば、写真好きで有名です。彼は写真を撮るのも好きですが、撮られるのも好きだったようで、幕末の時代からたくさんの写真に収められてきました。そのおかげで、現代の私たちも慶喜の実際の姿を知る事ができます。その姿は実に多様で、武士らしく紋付・袴・帯刀し端坐する姿、正装である衣冠束帯姿、はたまたフランス軍服で洋装した立ち姿、また勇壮に馬に跨る姿など、見る者を飽きさせません。顔立ちも我々にも親しみやすい現代的な雰囲気を感じます。さらに、幕末関連のサイトにも、「イケメン」という言葉を添えて慶喜を紹介しているものが散見されるので、現代日本の美的感覚からして彼は「イケメン」と言えるのでしょう。とはいえ、江戸時代に日本人が持っていた美的感覚は現代と違っていたとよく言われます。また、幕末期に多くの外国人が慶喜に会っていますが、彼らの目に慶喜はどのように映っていたのでしょうか?
まず、慶喜の幼少期(10代の頃)のこととして、慶喜の伝記である『徳川慶喜公伝』に次のようなエピソードが記されています。この時慶喜は、生家の御三家・水戸徳川家から、将軍家の家族たる御三卿・一橋家の当主になるべく養子に出されました。そして、時の12代将軍・家慶に謁見したのです。
「家慶公の公を愛し給ふことは尋常ならず、『七郎麿は、初之丞(故一橋慶昌、家慶公の実子)に能く似たり』といひ、大奥の輩も公の賢明にして眉目清秀なるを喜びて、共々に噂しまつりしかば、家慶公の愛情は益動けり(朝比奈閑水手記)。」1(太字筆者)
現代語に直すと、こうです。「家慶公は、慶喜公を尋常でないほどに可愛がられ、『七郎麿(慶喜)は、亡くなった我が息子・初之丞(一橋慶昌)によく似ている』と言っていた。また、大奥の人々も慶喜公が賢くて眉目秀麗であることを喜び、皆で噂していたので、家慶公はますます慶喜公を寵愛した。」
このエピソードは、もとは朝比奈閑水という人の手記に記されているものです。朝比奈閑水は、本名を朝比奈昌広といい、このエピソードの当時は、将軍・家慶附きの小納戸役、次いで小姓を務めていた旗本です。のちに家慶の世子・家祥(のちの13代将軍・徳川家定)付の小姓としても仕えました(その後も朝比奈は出世し、外国奉行や長崎奉行、勘定奉行などを歴任した)。上記のエピソードは、家慶の側近く仕えていた彼だからこそ語れる逸話でしょう。
さらに、上記のエピソードの典拠である「朝比奈閑水手記」を、この手記が掲載されている「徳川慶喜公伝 史料篇1」で深掘りしてみます。この「徳川慶喜公伝 史料篇1」は、「徳川慶喜公伝」を編纂する際の史料を集めたものです。この中に、家慶が慶喜(当時、七郎麿)に初めて会った際の様子について記した朝比奈の手記が掲載されています。
「慎廟(家慶)の刑部卿様(慶喜)を御寵愛ありしは、弘化四年九月初て御対顔ありしとき、能く初之丞に似をれりと其頃は御賢明だの、往々望みありだのと六ケ敷理屈より、只御一見愛らしきと思召され、其後段々御成長になり、御賢明にあらせられ、茲に至りて愛らしきと云うの外、往々大に望みありと思召も一変せしならん。」2(括弧内、太字筆者)
現代語に直すと、
「家慶公が慶喜様をご寵愛された理由は、弘化4年(1848年)9月に初めてご対面されたとき、『初之丞によく似ている』とおっしゃり、その頃はご賢明でいらっしゃるだの、前途有望だのという難しい理屈というよりも、ただ一目見て可愛らしいとお思いになったということのようだった。その後、慶喜様が段々とご成長されて、ご賢明でいらっしゃることが分かり、この時点になって、『可愛らしいだけでなく、非常に前途有望な子である』と家慶公のお考えも一変したのであろう。」
この記述からも、幼少期の慶喜は、家慶も理屈抜きに一目で可愛らしいと思うような子供であったことが伝わってきます。

次にご紹介する内容は、同じく「徳川慶喜公伝 史料篇1」において、将軍継嗣問題の渦中におけるエピソードを伝える史料(「嘉永安政年間継嗣問題に関する朝比奈閑水の手記」)として掲載されているものです。当時、朝比奈は13代将軍・家定の小姓として側近くに仕えていました。この頃、慶喜は20歳前後の青年になっています。
「温廟(家定)には刑部卿様(慶喜)を喜び給はず、夫のみならず若し刑部卿様御養君ならば、直に御譲職を行ひ、温廟御隠居なるべし、夫等の事も深く思召されたらんと推測せし人もあらんなれども、予が親敷御側にありて伺ひ見れば、夫等深き御考にはなく、大奥の浸潤もあらんなれども、又大奥にて刑部卿様を賞譽せしものもありし。是は水戸の御育ちの、御賢明のと云譯にてはなし、普通婦女子の口賢しく、御美麗とか何とかの艶言なりし。温廟には御美麗とは申上難く、御挙動も御自身にても御耻ぢ遊されし程なれば、外見にては申上様なし。(中略)大奥女中の、御表の人又は能役者等の男子の評論の如きは、大に御嫉妬心もあらせられたれば、刑部卿様も又夫等の事のありしならん、其意味筆を下し難し。」3(括弧内、太字筆者)
現代語訳すると、
「家定公は、慶喜様が将軍継嗣となることを喜ばしく思われてはいなかった。それだけでなく、もし慶喜様が将軍継嗣になれば、すぐにでも将軍職を譲り、家定公は隠居されなければならなくなるであろう。家定公はそのようなことも深くお考えになったのであろうと推測した人もいるようだが、私(朝比奈)が家定公のお側近くにいて伺い見るに、(家定公が慶喜様を良く思わない背景には)そうした深いお考えがあったわけではなく、大奥の意見が影響力を持っていたこともあろうが、それに加えて大奥の中に慶喜様を誉めそやしていた者がいたことも一因である。これは、水戸のお育ちがどうとか、ご賢明でいらっしゃるとかということではなく、一般に女性がよく言うような、『ご美麗でいらっしゃる』とかなんとかいうような艶言であった。翻って家定公については、ご美麗とは申し上げにくく、ご挙動についてもご自身で恥ずかしく思われていたほどなので、外見については申し上げようがない。(中略)大奥女中による、(大奥の外の)表の人または能役者といったような男性たちについての評判などには、家定公も大いに嫉妬心を抱いていらっしゃったので、慶喜様に対してもまたそれらと同様に嫉妬なさっていたのであろう。真相がどうであったか、断じることは難しいが。」
つまり、慶喜は、家慶が亡くなったのち青年期を迎えて、その英明さから、病弱の将軍・家定の後継者候補の一人として周囲から期待されていましたが、それに加えて、相変わらず大奥の女性たちから美麗だと誉めそやされていたため、家定から嫉妬・敬遠されてしまうほどであったということです。
上記のことから考えて、慶喜は当時の日本人の感覚からしても「イケメン」だったと言えるでしょう。

さらに、当時の外国人たちから見た慶喜についてはどうでしょうか?慶応3年(1867年)、当時31歳(数え)で、すでに将軍となっていた慶喜に、諸外国の公使たちが大坂城で謁見しています。そのうち、イギリス使節団のアーネスト・サトウやミットフォードは、下記のように慶喜についての評価を残しています。
まずは、ミットフォードの評価である。
「うたがいもなく、最後の将軍徳川慶喜公は、じつにすばらしい人物であった。ヨーロッパ人にくらべると、かれは小柄であったが、日本人としては普通の背丈をしていた。」4(太字筆者)
「われわれヨーロッパ人の観念からいって、かれは、わたしが日本滞在中に出会ったもっとも端麗な顔立ちの日本人であったと思う。」5(太字筆者)
「かれは整った容貌、明るく且つ鋭く輝く眼、健康な黄褐色の肌の持ち主であった。ひきしまった口もとをしていたが微笑むときの表情はやさしく、いうにいわれぬ魅力をたたえていた。体つきは強健で、活動的な人物のそれであった。」6(太字筆者)
続いてサトウの言である。
「将軍は、それまでわたしが出会った日本人の中で、もっとも貴族的な容貌をそなえていた人物のひとりであり、秀でたひたい、形のよい鼻、まさに紳士そのものであった。」7(太字筆者)
つまり、当時の外国人から見ても、やはり慶喜は容姿端麗な「イケメン」であったわけです。サトウやミットフォードに限らず、その他の外国人たちも慶喜について非常に好印象を抱いたことを語っています。
さて今回は、慶喜は当時の感覚からしても「イケメン」だったのか、ということについて見てまいりました。今回ご紹介したエピソードを総合して考えると、慶喜は、洋の東西を問わず、当時の人々の感覚からしても魅力的な姿をしていたということがわかります。つまり、慶喜はユニバーサルな魅力を持った人物だったといえるでしょう。
それでは、今回はここまで。次回もお楽しみに。

【脚注】
- 渋沢栄一著;藤井貞文解説、『徳川慶喜公伝1』、平凡社、1967年、62頁 ↩︎
- 日本史籍協会編、『徳川慶喜公伝 史料篇1』、東京大学出版会、1997年、237頁 ↩︎
- 同上、243-244頁 ↩︎
- 萩原延壽著、『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4』、「謁見」、朝日新聞社、1999年、353頁 ↩︎
- 同上 ↩︎
- 同上 ↩︎
- 同上、355頁 ↩︎
【参考文献】
・渋沢栄一著;藤井貞文解説、『徳川慶喜公伝1』、平凡社、1967年
・日本史籍協会編、『徳川慶喜公伝 史料篇1』、東京大学出版会、1997年
・萩原延壽著、『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4』、「謁見」、朝日新聞社、1999年
・アーネスト・メイスン・サトウ著;鈴木悠訳、『一外交官の見た明治維新』、株式会社講談社、2021年
・Redesdale, Algernon Bertram Freeman-Mitford, Baron. Memories Vol.1, London : Hutchinson & Co., 1915
・Ernest Satow. A Diplomat in Japan, London : Seeley, Service & Co. Limited, 1921
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