第3回 「外国人は最後の将軍・徳川慶喜をどのように評価したのか?」

歴史 History
徳川慶喜  出典:Wikipedia

はじめに

 さて、今回は、「幕末の外国人たちに、最後の将軍 徳川慶喜という人物はどのように映ったか?」に迫ります。

 江戸時代の後期にもなると、日本全国各地の沿岸に外国船が通商を求め来航します。極めつけとなったのが、嘉永6年(1853年)の黒船来航です。四隻の黒塗りの蒸気軍艦で浦賀沖に来航したペリー提督一行は、江戸幕府にアメリカ大統領からの国書を渡し、開国を求めました。一度日本を離れ、翌年に再来航したペリーは、幕府側と交渉の末、日米和親条約を締結しました。ここに、3代将軍家光の時代以来続いてきた、いわゆる「鎖国」体制は崩れ、多くの外国人が動乱の幕末日本の地を踏むことになります。

 さて、この徳川幕府の終末期に、将軍の座にあった徳川慶喜ですが、当時、多くの外国人たちと会見し、交流しています。実際に将軍・慶喜に会って、外国人たちはどのような印象を受け、どのように評価したのでしょうか?
 

初めての謁見 ~絶賛された慶喜~

 慶喜が最初に外国人たちの前に姿を見せたのが、慶応3年(1867年)3月に数日にわたり大坂城で行われた外国公使謁見というイベントです。このイベントは、非公式の内謁見と、公式謁見とに分かれていました。28日に行われた公式謁見では、前年の12月に就任したばかりの新将軍・慶喜による挨拶があり、その中で、今後益々の諸外国との親密な交際を願い、懸案であった条約の完全履行(兵庫開港)を決定したことが伝えられました1

 さて、公式謁見よりも遡ること数日、慶応3年(1867年)3月25日(陽暦4月29日)には、英国公使ハリー・パークスが、通訳のアーネスト・サトウそして随行員のミットフォードらとともに大坂城に招待されており、慶喜との内謁見に臨みました。

 ここで初めて慶喜と相対したパークスは、その印象を次のように語っています。

毅然な態度と、非常に親しみをおぼえる態度とが、将軍の中で同居している。かれがまだ三十一歳の若さであるということは、古い偏見やしきたりと取り組むさいの柔軟性、変化する環境にたいする適応性という点で、大きな期待をいだかせるものであり、このような期待を旧式の日本の政治家に求めることは、ほとんどできないことなのである。2

将軍は、過去十年の出来事を注意ぶかく見守り、その間決定的な役割を果たすことを出来るかぎり回避しつつ、現在の強力な地位に上りつめる才覚を有していた。現在、かれは、内政と外交の双方に関して対立し合っている諸党派から、調停者の役割を期待されているようである。3

将軍の城のすばらしさも、かれの個人的資質のすばらしさをしのぎはしなかった4

 パークスは、最大級の賛辞を、慶喜に対して贈っています。よほど慶喜という人物に感銘を受けたようです。パークスは、極めつけにこんな言葉も残しています。

わたしは将軍がどのような地位を占めることになろうと、可能なかぎりかれを支援したいと思っている。5

 この時点でパークスが慶喜に魅せられていた事実は疑いようもありません。パークスは、彼の言動の中に、政治家として、そして一人の人間としての内面的な頼もしさを見出したのでしょう。

 さらに、パークスのみならず、随行したサトウやミットフォードも、慶喜について次のような評価を残しています。

うたがいもなく、最後の将軍徳川慶喜公は、じつにすばらしい人物であった。ヨーロッパ人にくらべると、かれは小柄であったが、日本人としては普通の背丈をしていた。6

われわれヨーロッパ人の観念からいって、かれは、わたしが日本滞在中に出会ったもっとも端麗な顔立ちの日本人であったと思う。7

かれは整った容貌、明るく且つ鋭く輝く眼、健康な黄褐色の肌の持ち主であった。ひきしまった口もとをしていたが微笑むときの表情はやさしく、いうにいわれぬ魅力をたたえていた。体つきは強健で、活動的な人物のそれであった。8 (以上、ミットフォード言)

将軍は、それまでわたしが出会った日本人の中で、もっとも貴族的な容貌をそなえていた人物のひとりであり、秀でたひたい、形のよい鼻、まさに紳士そのものであった。9 (サトウ言)

 これまた、実に好意的な評価を与えています。実は、サトウやミットフォードは、このときパークスよりもはるかに倒幕勢力の側に身を寄せていた10にもかかわらず、実際に敵」の総大将たる慶喜個人に相対してみると、一人の人間としての魅力を認めざるを得なかったようです。

 ちなみに、詳細な日付については分かりませんが、外国公使謁見時の慶喜の姿を記した当時のロンドンの新聞記事を、『徳川慶喜公伝』では次のように紹介しています。

大君は佳麗にして且柔軟なる絹衣の、前面に葵の紋章を縫箔したるを著し、広き袴を穿ち、黒き帽子を戴き、極めて修飾したる刀を其帯間に佩し、脇に小刀を挟めり(衣冠なりしにや、然らば大小を帯びしといふこと矛盾せり)、大君は身の丈け常人に異ならず、顔色麗しく、超邁の風あり、眼光熒々(けいけい)として音色いと朗に、居動安静にして正しかりき11

慶喜 大坂城で謁見時の姿(1867年)  出典:Wikipedia

 つまり、「大君(慶喜筆者注)は佳麗かつ柔らかな絹の服で、前面には葵の紋を縫い付けたものを着て、広い袴を穿き、黒い帽子を戴き、きれいな装飾のついた刀を帯の間に差し、脇には小刀を挟んでいた。(衣冠だったのだろうか?そうだとすると、大小の刀を帯びていたというのは矛盾している。)大君の身長は平均的で、顔色は美しく、他者よりはるかに優れている雰囲気があり、眼光はきらきらと輝き、声色はとても朗らかで、挙動も静かで礼儀正しかった。」と、報じています。

 上の記事は、おそらくパークスらの証言などを基に書かれたものだと推測されますが、やはり外国人たちにとって非常に好印象であったことが伝わってきます。

 この出来事以降、パークスの態度は、大きく慶喜の側に傾いていきますが、それでもサトウはそうした上司の心変わりを快く思わず、なおも志士たちと連携し、倒幕に向けた画策を進めていきます12
 
 英国公使たちを魅了した慶喜ですが、それは英国人に限ったことではありません。フランス公使のロッシュなどは、パークスより前に慶喜に謁見し、以降幕政改革について積極的に慶喜へ建言・協力していました13。彼もまた慶喜に対し、非常に好印象を抱き、上司である外務大臣ムスティエに書簡で伝えています。

大君は若々しいお方(31歳)で、温和で聡明な顔をしておられ、きわめて端正な威厳のある物腰は君主のそれであります。外国人と対面されたのは今回がはじめての由。彼の会話には、若干のはにかみと、思慮深い、貪欲に見聞を広めようとする、人の意見をよくきく精神がうかがえるのでした。(中略)小生は大臣閣下に、日本でわれわれの相手にする君主が、個人的にも尊厳と共感のもてる人物であると保証できるのをうれしく思います。14

 これらの評価は、第2回「徳川慶喜はイケメンだった?」の記事でもご紹介したように、慶喜の容姿端麗さや身のこなしが、日本人だけでなく欧米人をも魅了し、グローバルに評価されていたことの証左であるといえましょう。そして、そのことから、君主として、政治家として、今後の日本の舵取りを担う、強力なリーダーとなることを大いに期待されたのでした。

 

王政復古クーデター後の評価   ~幻滅?同情?尊敬と忠誠?~

 しかし、慶喜は、そうした彼らの大いなる期待に十分に応えることはできませんでした。当時の超難題であった兵庫開港問題の解決と、内乱を避けるための大政奉還というアクロバティックな政略の成功までは、面目躍如といった慶喜でしたが、その後の王政復古クーデターから江戸帰還までの彼の行動は、彼を今後も政治の中心人物であり続けるものとして頼りにしていた外国公使らにとっては、意外かつ残念なものでした。

 大政奉還後、慶喜は、薩摩藩を中心とする倒幕勢力が起こした王政復古のクーデターにより、図らずも京都御所から締め出され、政権の中枢から遠ざけられてしまいます。慶喜は、これに憤る会津・桑名両藩や旗本らの暴発、そしてそれに端を発する京都での内乱が起こることを恐れ、やむなく彼らを連れて大坂に退去してきました15

 その時、大坂城に帰還してくる慶喜の様子を、サトウらは群衆に交じって実際に見ていました。そこでサトウは、ほんの8か月前に見た時とは別人のような慶喜の姿を目の当たりにします。

つづいて、あたりが静かになった。騎馬の一隊が近づいてきて、日本人はみなひざまず
いた。一橋(慶喜)と、かれに従うひとびとであった。われわれは、この転落した偉人に脱帽した。かれは黒い頭巾で顔をつつみ、軍帽をかぶっていた。その顔はやつれていて、悲しげに見えた。
(中略)入城は大手門からであった。『下馬』のところで、大君のほかは、みな馬からおりた。この光景にふさわしく、雨が落ちてきた。16 (サトウ言)

 その後、大坂城内で再謁見し、対談した際の慶喜の様子を、パークスは次のように回想しています。

大君の説明は、首尾一貫したものではなかった。かれは、自分の出逢った困難に押しつぶされているように見えた。わたしは、かれが決断力に欠けていると思えてならない。17

かれら(倒幕派筆者注)は権力の象徴(天皇)を大君から奪い取ったが、大君はそれを奪い返すために戦うつもりはないように見える。(中略)ともかく、その動機がなんであれ、この数日間のかれの行動を見ると、大君は豪胆というよりも、むしろ陰険という印象を受ける。18

 8か月前のあの賛辞はどこへ行ってしまったのやら、一転して非常に厳しい言葉で酷評しています。これについて、著書『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』で萩原延壽氏は、「かつて慶喜の聡明さに打たれ、外国交際への熱意に共鳴し、大政奉還を英断と讃えたパークスではあったが、ここにいたって、慶喜はパークスにとって『落ちた偶像』と化したのかもしれない」19と述べています。最初の謁見時に抱いた慶喜に対する期待も尊敬の念も大きかっただけに、裏切られた気持が反作用的に強くなり、辛辣な評価へと繋がったのかもしれません。

 そして、この時、かつてあれほどパークスの心変わりを嫌い、倒幕運動に加担してきたサトウが対照的に、「慶喜を臆病者として糾弾することは酷である。彼のことをそのように評価する者を、私は知らない。20同情的に述べているのは、何とも皮肉ではありませんか。

 一方、もう一人の熱烈な慶喜崇拝者であるフランス公使ロッシュも、この時に慶喜に謁見しており、その様子を報告書で次のように述べています。

わたしは『将軍』の招きで登城し、いつもとかわらぬあたたかいもてなしをうけた。『将軍』をとりまく困難な状況にもかかわらず、かれは精神の落ち着きと闊達さを保持していて、わたしにつよい感銘をあたえた21

われわれは過度に楽観的な見方をしなくとも、まもなく『将軍』が自分の行動の果実を摘み取る立場に復帰することを、期待できる。かれの行動は穏健であると同時に、賢明なものであった。22

 これは、パークスらが感じた「やつれた」慶喜とは大きく異なる印象です。それどころか、ロッシュは、相変わらずの賞賛を慶喜に与えています。

 つまり、京都から「追放」された同じ慶喜を見ても、一気に冷めてしまったパークス同情的なサトウ、ますます尊崇の念を強めるロッシュというように、ここで紹介した外国人たちの受けた印象は三者三様だったのです。

戊辰戦争へ突入         ~慶喜を信じ続けたロッシュ~

 その後、慶喜は薩長との衝突を避けるために最後まで自重していたものの、敵方の薩摩藩の挑発と、それに乗せられた配下の旧幕府軍の激高により、否応なしに鳥羽・伏見の戦いの開戦へと引きずり込まれてしまいます。戦局は旧幕府軍にとって思わしくなく、敗走が続きます。結果として、慶喜は兵士たちを置き去りにして、わずかの近習とともに海路で江戸に帰ってしまいます。

 この時、フランス公使ロッシュは、帰還後の慶喜に江戸城で謁見し、フランスも軍事面と資金面で支援するのでぜひ再挙するよう熱心に促しています。その再挙は、結局慶喜が恭順の決心を固く揺るがさなかったために、遂に実現を見ませんでした2324。ロッシュが、旧幕府がここまで追い詰められた状況でも粘り強く支援したのは、一つには、ライバルであるイギリスが薩摩側についたことに対抗し、日本におけるフランスの権益を守るためでもあったでしょうが、それだけでは説明できないでしょう。やはり、上述の発言や経緯から考えるに、ロッシュ個人として、慶喜というカリスマが再度奮起して幕臣らを指揮すれば、必ずやその本領を発揮し、旧幕府勢力の巻き返しと慶喜個人の政権中枢への復帰・参入を実現できるという思いを最後の最後まで持っていたためでしょう。

 蛇足ですが、王政復古以降のこうした行動がゆえに、今日に至るまで、慶喜には「卑怯者」や「裏切り者」といった評価が付きまといます。しかしながら、幕末・維新期から年月が経ち、明治中期になると、旧幕府側の功績を再評価する風潮が高まります。そうした中で、慶喜の行動についてもまた再評価され、大政奉還が近代天皇制国家創設への途を切り開いた、つまり慶喜こそ維新最大の功労者だとする評価も出てくるのです25

おわりに

 さて、今回は、「幕末の外国人たちに、最後の将軍 徳川慶喜という人物はどのように映ったか?」についてご紹介しました。見てきましたように、慶喜の外国人たちによる評価は、初めての謁見では、一様に非常に好意的で賛美に近いものでした。しかし、わずか8か月後の王政復古クーデター以後では、見る者によってはたちまちに幻滅の対象になり、また見る者によっては同情の対象となり、さらに見る者によってはなおも変わらず尊崇の対象であり続けたのです。個々人の見方の違いと言ってしまえばそれまでですが、それだけ慶喜という人物に画一的な評価を与えることが難しかったこと、また、目まぐるしく形勢が変わる幕末・維新の政局を読み取らなければならない外国公使たちの混乱と焦燥感も伝わってくる今回のエピソードであったと思います。

 それでは、次回もお楽しみに!


【脚注】

  1. 渋沢栄一著、『徳川慶喜公伝3』、平凡社、1967年、341-342頁 ↩︎
  2. 萩原延壽著、『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4』、朝日新聞社、1999年、352頁 ↩︎
  3. 同上 ↩︎
  4. 同上、357頁 ↩︎
  5. 同上、362頁 ↩︎
  6. 同上、353頁 ↩︎
  7. 同上 ↩︎
  8. 同上 ↩︎
  9. 同上、355頁 ↩︎
  10. 同上、364頁 ↩︎
  11. 渋沢栄一著、『徳川慶喜公伝4』、平凡社、1968年、308頁 ↩︎
  12. 萩原、注2前掲書、364-365頁 ↩︎
  13. 同上、300頁 ↩︎
  14. 鳴岩宗三著、『幕末日本とフランス外交』、創元社、1997年、152頁 ↩︎
  15. 渋沢、注11前掲書、133-136頁 ↩︎
  16. 萩原延壽著、『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5』、朝日新聞社、1999年、104―105頁 ↩︎
  17. 同上、120頁 ↩︎
  18. 同上、121頁 ↩︎
  19. 同上 ↩︎
  20. アーネスト・メイスン・サトウ著、鈴木悠訳、『一外交官の見た明治維新』、講談社、2021年、416頁 ↩︎
  21. 萩原、注16前掲書、123頁 ↩︎
  22. 同上、126頁 ↩︎
  23. 渋沢、注11前掲書、227-228頁 ↩︎
  24. 渋沢栄一編;大久保利謙校訂、『昔夢会筆記 : 徳川慶喜公回想談』、平凡社、1966年、本編29頁 ↩︎
  25. 家近良樹著、『徳川慶喜』、吉川弘文館、2014年、283-284頁 ↩︎

【参考文献】

・渋沢栄一著、『徳川慶喜公伝3』、平凡社、1967年

・渋沢栄一著、『徳川慶喜公伝4』、平凡社、1968年

・萩原延壽著、『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4』、朝日新聞社、1999年

・萩原延壽著、『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5』、朝日新聞社、1999年

・鳴岩宗三著、『幕末日本とフランス外交』、創元社、1997年

・アーネスト・メイスン・サトウ著、鈴木悠訳、『一外交官の見た明治維新』、講談社、2021年

・渋沢栄一編;大久保利謙校訂、『昔夢会筆記 : 徳川慶喜公回想談』、平凡社、1966年

・家近良樹著、『徳川慶喜』、吉川弘文館、2014年


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