さて、第1回の今日は、「最後の将軍である徳川慶喜が、どのような話し方をしていたか?」に迫ります。
「最後の将軍」なんてタイトルが付いてしまうと、相当昔の人で、かつ高貴な方ということで、さぞ難しい古めかしい話し方をしていたものと想像してしまうかもしれません。
しかし、実際には、意外にもかなり親しみやすいフランクな口調で話していたと思われます。そのことが分かる史料が、『昔夢会筆記』と呼ばれる書籍です。まず初めに、この本の成り立ちと概要を説明します。
こちらはどんな本かといいますと、ずばり慶喜の回想録です。明治の中頃になり、朝敵とされた慶喜の冤罪を晴らそうと、旧臣で実業家の渋沢栄一が発起人となり、慶喜の伝記の編纂に向けて活動を開始しました1。そうした中で、当の本人が健在なのだから、慶喜自身に直接生い立ちや幕末・維新期のエピソードを語ってもらい、不明点や疑問点について質問し、正確を期すことが必要と考え2、発足した会が「昔夢会」でした。ちなみに、この「昔夢会」の名は、慶喜が自ら名付けました3。
昔夢会には、慶喜を語り部に、聴き手として渋沢をはじめ、江間政発(えませいはつ、元桑名藩士、漢学者)などの同時代を生きてきた人々や、萩野吉之(文学博士)などの編纂当時の歴史学者らが名を連ねておりました。慶喜はこの会に全17回出席し、座談応答の形式で激動の幕末・維新の時代を振り返りました。また、この座談会とは別に、編纂員が慶喜の邸に赴き、稿本の批評・訂正を仰ぐ会も8回催されました4。
渋沢らは、何とか慶喜が存命のうちにこの伝記を出版したいと考えておりましたが、残念ながら慶喜は発表前の1913年(大正2年)に亡くなってしまいます5。最終的に、この会で聴取された内容も盛り込んで、1918年(大正7年)に『徳川慶喜公伝』は出版されました。それに先立つこと3年、1915年(大正4年)、この昔夢会で慶喜が語った談話の記録は、伝記の起稿に関係した者のみに限定で、当初たった25部のみ校正・印刷し、配られました6。これが『昔夢会筆記』と呼ばれる書籍です。こちらは後に、大久保利通の孫で、歴史学者である大久保利謙(としあき)により解説が加えられ、一般に向けて出版されました。かつては慶喜と敵対した大久保利通の孫が、後世になって慶喜の回想録に文を添えるというのも、非常に興味深いところです。
・・・と、前置きが長くなりましたが、本日のテーマに戻ります。この『昔夢会筆記』を読むことで、慶喜がどんな語り口で話していたのかを、知る(推し量る)ことができるのです。と言いますのも、当書は、文語体(書き言葉)の記述部分と口語体(話し言葉)のクロス・トーク(対話)形式部分に分かれており、文語体部分は、慶喜の語った言葉を古文調に直して書かれていますが、口語体部分は慶喜と出席者との対話を編纂員が速記を用いて記録する方式をとっています7。つまり、慶喜公の「話したまま」の、まさに「生」の言葉に触れることができるのです。ただし、初版の段階で、文体のバランスや読者の理解のし易さを考え、多少修正された箇所もあるかもしれません。しかし、何といっても渋沢自身が当書巻頭の例言において、「速記を用いることを許されたれば、公の御談話の趣、今なお親しく教えを承るの想あり」8と述べ、かつ「今いささかもこれを改めずして旧面目を保存す」9と記しているので、限りなく慶喜が語ったそのままに近いものと思われます。
さて、いよいよ実際の慶喜の話し言葉について見ていきます。まずこの一文をご覧ください。
「この指の事はなお私が考えたが、この時に指を切ったように私は覚えている。」10 (太字筆者)
最初からちょっとおどろおどろしい内容ですが、これがこの対話形式部分で、初めて慶喜が一人称で語る場面です。ルビには「わたくし」とあります。その後、慶喜は当書の中で終始自分のことを「私」と呼んでいます。つまり、当書の記述を根拠とすれば、慶喜は、昔夢会で語った当時、一人称としては「私(わたくし)」を使っていたことが分かります。
なお、この一節は、兵庫開港問題の折、欧米列強との交渉役となった井上主水正(義斐)が列強側から開港許可の回答を催促された際に、「ただちに回答することはできないので、十日間ほどの猶予が欲しい。ひいては、自分(井上)の指を切って、証とするので取っておけ」と啖呵を切って回答の延期を勝ち取ったとされるエピソード11について、「井上はこの時に実際に指を切ってしまったのか、それとも列強側のなだめにより切らないで済んだのか」という点を、慶喜と出席者との間で議論した場面です。
おそらく、慶喜は、明治期だけでなく幕末期においても、儀式ばった場のように上下関係を明示する必要のない、セミ・フォーマルやカジュアルな打ち解けた会話では、この「私(わたくし)」を使っていたのではないでしょうか?もちろん、実際には、色々な場面によって様々な一人称を使い分けていたと想像します。とはいえ、将軍といえば「予(よ)」などと自称するイメージが強いですが、「私(わたくし)」と呼んでいたというと、なんだか現代の私たちにとっても親近感が沸く存在になってきませんか?
当書の他の場面では、
「これは私の方には関係はないよ。」12(太字筆者)
「板倉(勝静)が大城に行ったんだね。」13(括弧内、太字筆者)
などの語尾で話しており、まさに現代人と同じような語り口です。強いて言うならば、全体的に夏目漱石の『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』などの明治の言文一致体の小説に出てくるような感じでしょうか?非常に親しみの持てる話し方です。徳川将軍を一気に身近に感じますね。これも一人称「私」と同じく、非常に新鮮な印象を受けました。
しかし、別のところでは、
「何分それは少しも聞かぬ。」14(太字筆者)
「実権は持っておらぬ。」15(太字筆者)
こちらは、時代劇にも出てくる武家言葉のイメージに近いでしょうか。こんな風に、「サムライ」の片鱗を覗かせる場面もあります。なんといっても、「武家の棟梁」であった慶喜ですから、当然といえば当然かもしれませんが。
明治の世になって長い年月が経ち、世間で話される言葉も変化し、慶喜自身の地位も変わり、かつての身分制度では関わることのなかった人々とも交流することになり、幕末当時の話し方からは多少の変化があったことでしょう。しかしながら、一人の人間の話し方が、成人以降に一生のうちで劇的に変わることはないことを考えますと、慶喜の話し言葉は幕末期でも昔夢会筆記の記述と似たようなものであったと思われます。(幕末期に書かれた慶喜の口語体資料でもあれば良いのですが、文語体で記すことが当たり前の時代ですので難しいですよね・・・)
ちなみに、幕末期に大奥に出仕していた女中たちが後に語った談話によると、将軍は自らのことを、「此方」や「自分」と呼んでいたとのことです。また、将軍の正妻である御台所は、「私」と自称していたようです。16これらのことからも、慶喜もまた「私」と自称していたのも納得できます。つまり、言葉遣い一つをとっても、私たちが想像する以上に、江戸時代、特に幕末期は現代に近い存在であるということが伺い知れます。
―生きるか死ぬかの幕末・維新の動乱が終わり、平和な時代が訪れ、それから幾星霜、すっかり好々爺となった慶喜が、ひと時若返ってまたあの激動の昔を思い出して語る様子が、あたかも読者自身も一緒に参加しているかのように伝わってきます。
興味を持たれた方は、ぜひこの『昔夢会筆記』をお読みください。聴き手の江間たちが、「あの当時のことを詳しく教えてください!」、「あの時一体何が起きていたのですか!」とばかりに身を乗り出して質問している雰囲気がひしひしと伝わってきて、彼らとボルテージを共有しながら読み進めると、臨場感たっぷりでとても楽しいですよ。一度読み始めたら止められなくなること間違いなしです。
それでは、今回はここまで。次回もお楽しみに。
【脚注】
- 渋沢栄一編;大久保利謙校訂、『昔夢会筆記 : 徳川慶喜公回想談』、平凡社、1966年、巻頭24頁 ↩︎
- 同上、本編326頁 ↩︎
- 同上、巻頭30頁 ↩︎
- 同上、本編327頁 ↩︎
- 同上、巻頭31頁 ↩︎
- 同上、巻頭3頁 ↩︎
- 同上 ↩︎
- 同上 ↩︎
- 同上 ↩︎
- 同上、本編42頁 ↩︎
- 同上、本編249-250頁 ↩︎
- 同上、本編55頁 ↩︎
- 同上、本編56頁 ↩︎
- 同上、本編49頁 ↩︎
- 同上、本編93頁 ↩︎
- 旧事諮問会編;進士慶幹校注、『旧事諮問録—江戸幕府役人の証言—(上)』、岩波書店、1986年、202頁 ↩︎
【参考文献】
・渋沢栄一編;大久保利謙校訂、『昔夢会筆記 : 徳川慶喜公回想談』、平凡社、1966年
・旧事諮問会編;進士慶幹校注、『旧事諮問録—江戸幕府役人の証言—(上)』、岩波書店、1986年
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