第5回 「蜂須賀小六(正勝)の末裔はどうなった?何をしていた?~明治を華麗かつ堅実に生きたエリート・蜂須賀茂韶~」

歴史 History
蜂須賀茂韶  出典:Wikipedia

はじめに

 第5回の今回は、戦国時代の有名な武将・蜂須賀小六ころく正勝まさかつ)の子孫がどうなったか?何をしていたのか?について、幕末・明治期の当主・蜂須賀茂韶もちあきを中心にご紹介します。

小六の子孫は、阿波・淡路2国の外様・大大名に

のちの事件の火種

蜂須賀正勝  出典:Wikipedia

 秀吉の与力、のちに家臣として活躍した蜂須賀正勝は、天正9年(1581年)に播磨国龍野の大名となります。そして、天正14年(1586年)に正勝は大坂で病死します。そののち、正勝の子・家政いえまさは、天正13年(1585年)に阿波国徳島で17万3千石の大名になっています。

 秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて家政の子・至鎮よししげが東軍についたことで、外様大名としてですが、阿波国を家康から安堵されます。さらに、大阪の陣ののちには、淡路国を加増され、合計で25万7千石の大大名となりました

 至鎮は、この淡路国を、筆頭家老の稲田いなだに任せます。以後、稲田氏は、淡路島の洲本すもと城の城代に任じられ、1万4千石を領することとなりました。徳島藩の家臣としては、破格の待遇でしたが、実は稲田家の祖である稲田植元たねもとは、もともと蜂須賀正勝とは義兄弟の契りを結んだ間柄 であり、同じ信長・秀吉の家臣として共に歩んできました。
 
 そのため、稲田氏は単なる家老ではなく、徳島藩主・蜂須賀氏と対等な立場の「客分」として洲本に収まったのでした。しかし、時代が下るにつれ、徐々に蜂須賀家と稲田家の関係は主従関係へと変化していき、確執が生まれました。このことが、のちの事件の大きな火種となるのです。

幕末の当主・蜂須賀斉裕

外様ながら徳川将軍家の親族

 さて、蜂須賀家ですが、正勝の血は早々に途絶えてしまい、その後は、他家から養子をもらいながら幕末まで続いていきます。

 その幕末期に当主となったのが、13代藩主・蜂須賀斉裕なりひろです。この斉裕ですが、なんと11代将軍・徳川家斉の子(第22子)で、養子縁組により徳島藩主の世子となりました。つまり、これにより、蜂須賀家は徳川将軍家の近しい親戚になったわけです。家斉が子だくさんであったことの影響が、全国各地の外様大名との縁組みという形で顕れていきます。

 こうした背景もあり、斉裕は外様でありながら親幕的であり、幕府の陸軍総裁にも就任しています。斉裕は、領内の由良や岩屋に砲台を構築したり、イギリス流の軍に改めるなど軍制改革を行うとともに、多数の家臣を上洛させて幕府の一橋慶喜(徳川慶喜)に協力して公武合体政策を進めました。

 しかし、先述の、筆頭家老の稲田家は尊攘・倒幕派で、急進的な行動をとっており、徳島藩としては藩論を統一することができませんでした。長年の確執が、ここに来て藩論の分裂という形で顕在化したのでした。さらに、鳥羽・伏見の戦いの勃発という、武力倒幕がいよいよ始まったタイミングの慶応4年(1868年)1月、斉裕は48歳の若さで亡くなります。斉裕は、最後まで佐幕の姿勢を崩しませんでした

最後の徳島藩主・蜂須賀茂韶

幕府と朝廷の狭間で

 この斉裕の跡を継いだのが、若き22歳の14代(最後の)藩主・蜂須賀茂韶もちあきです。茂韶は、弘化3年(1846年)に生まれた 斉裕の実子で、11代将軍・家斉の孫にあたります。茂韶は、斉裕の死を受け、それまでの幕府との姻戚関係を一応清算できると考え、藩是(藩の方針)を勤王・倒幕に傾けていきます。しかしながら、過激な倒幕派からは一定の距離を置いていました。やはり、常に頭の片隅に、将軍家との親戚である自らの生い立ちが意識されていたのでしょう。

 茂韶は、すでに数年前から父の命を受けて京都の政局に積極的にかかわってきており、鳥羽・伏見の戦い後は公議政体派の松平春嶽(慶永、前越前藩主)らと歩調を合わせ、建白書を朝廷に提出して新政府軍の東征を止めようとしました。しかし、その建言は無視され、東征が決まってしまいます。ここでついに茂韶も、世の趨勢の前に徳川擁護の姿勢を断念し、徳島藩も東征に加えるよう、願い出ています。

 慶応4年(1868年)3月、茂韶は新政府の議定に任じられ、刑法事務局補を兼ねることになりました。翌年の明治2年(1869年)、版籍奉還が実施され、茂韶は徳島藩の知藩事となりました。そして、国元で藩政改革を進めていきます。

庚午事変

筆頭家老・稲田家との確執

 ここまでは、割と順調に維新期を迎えていた茂韶ですが、ついに明治3年、稲田家との確執による大事件が勃発します。新政府の身分制度改革により、(徳島藩の直参家臣は士族となったのに対し、)稲田家の家臣たちが士族ではなく卒族身分とされたことに不満を抱き、徳島藩に掛け合ったものの応じられなかったため、ついに新政府に対し、「洲本藩」としての新藩独立を働きかけたのです。

 この頃、新政府では身分制度の再編が始まっており、これまでの武士階級は、士族と卒族に分けられることになりました。士族・卒族の選定基準は、各藩によって異なるため、画一的には言えませんが、おおむね士族は足軽より上の身分の者(華族を除く)、卒族は足軽以下の下級武士、という形で編成されました。

 しかし、各藩の中には、藩主直参ではなく、家老以下に仕えていた武士(藩主から見れば陪臣)も多数おり、そうした者たちは足軽より上の身分であっても、卒族に分けられることもありました。稲田家の家臣も、こうして士族より下の卒族にカテゴライズされてしまったわけです。幕末・維新期に、尊攘・倒幕運動に積極的な役割を担ってきた自負のある稲田家家臣としては、到底納得できる話ではなかったのです。

 さて、新藩独立を願い出た稲田家の動きに対し、「本藩」たる徳島藩の家臣の一部が激怒し、洲本地域を襲撃してしまい、死傷者が出ました。この騒動を重く見た新政府は、徳島藩側の首謀者・実行者らを処罰し、稲田家に対しては、家臣らに士族身分を与える代わりに北海道の静内と色丹島に領地を与えて移住させ、開拓に従事させます(淡路島は、のちに兵庫県に編入)。同様の問題を抱えるのは徳島藩に限ったことではなかったため、新政府は全国諸藩の暴発を懸念して慎重に対応し、知藩事の茂韶への処分は謹慎にとどまりました。これがいわゆる、庚午こうご事変」(稲田騒動)です。

明治期の茂韶

イギリスでの海外留学

 翌年の明治4年、廃藩置県により徳島藩は消滅しました。大変な事件を乗り越えた茂韶は、東京に移ります。

 翌明治5年、茂韶は夫人のあやを伴い、イギリスへ私費留学します。特に、鉄道に興味を持ち、随行した家臣に鉄道事業を研究させ、日本にその成果を持ち帰らせています。その後、明治8年に茂韶はオックスフォード大学に入学し、勉学に勤しみました。そして、明治12年にようやく帰国したのでした。

 そして、この約7年間の海外経験こそが、その後の茂韶の人生の方向性を決定づけるものとなったのです。

外交界での華々しい活躍

政界・官界・法曹界でも多才なキャリア

 帰国後すぐに、茂韶は外務省御用掛となり、早速その海外経験を買われることになります。今まで幕府や朝廷・新政府を相手とする政治家・役人としての実務経験もあり、さらに長い海外留学経験もある茂韶は、外交官としてもってこいの人材、即戦力とみなされたのでしょう。明治12年には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の孫ハインリッヒの来日に際し、遊覧のお供を命じられています。

 明治13年には、皇別管長、次いで大蔵省関税局長(三等出仕)に任じられます。翌14年には、再び外交畑で、来日したハワイ王国のカラカウア王の接待係を拝命しています。

 明治15年5月、参事院議官に就任し、法制部勤務となるも、12月に、特命全権公使に任じられ、フランス駐在を命じられます。茂韶は、スペイン、ポルトガル、スイス、トルコの公使も兼任します。

 パリにおいて茂韶は、日本の赤十字への加盟を求めて、フランス政府と交渉しました。フランスからは、キリスト教国以外の国を赤十字に加えるのは前例がないとして、難色を示されましたが、茂韶は「それぞれ宗教は異なるが、その教義はみな、仁愛と慈悲の心である。儒教や仏教の仁愛と、キリスト教の愛とは言葉は違えど、その意味するところは同じであり、何ら齟齬は無い。」などと説いて、フランスを納得させ、同意を取り付けました。

 このように、茂韶は、持ち前の海外経験を存分に活かし、外交官・駐在大使として数々の優秀な働きを見せたのでした。これには、幕末・維新期から鍛錬された周旋能力や蓄積された渉外経験もまた役立っていたことでしょう。

 その後、茂韶は、元老院議官、高等法院予備裁判官を経て、明治23年には東京府知事となり、翌24年に貴族院議長に就任しました。このように外交官、法曹界、知事、議員と、官僚・政治家として多才な経歴を積み重ねていきました。

 そして明治29年には、ついに文部大臣にまで上りました。大名出身者で、内閣の閣僚になることは極めて稀であり、茂韶の有能さがうかがえます。

財界でも活躍した茂韶 そして、薨去

 茂韶の活躍は、政界・官界にとどまりませんでした。財界(実業界)でも躍動します。

 北海道雨竜うりゅうの原野1億5千万坪の貸与を政府に請い、華族組合農場を組織し、イギリス式の大農法の実施や牧場の経営をしようとしたのです。しかし、明治24年に、後援者の三条実美の急死を受け、計画は中止を余儀なくされます。

 この時、土地の大半は返還したものの、茂韶自身も多額の出資をしていたため、一部の土地の開発を蜂須賀家で継続しました。近くの土地についても払い下げを受け、明治30年からは小作人を入れ、農場経営を展開しました。その結果、茂韶が亡くなる大正初期までに、蜂須賀農場には約8千町の水田が完成し、1万石の米を収穫できるまでになりました。

 こうした実業における成功もあり、蜂須賀家は、日本を代表する大富豪になりました。ここでも、イギリス式農法の知見や明治政府の実力者たちとのつながり等、茂韶の積み重ねてきたものが活かされてているようです。

 また、茂韶は、徳島の国立銀行・第八十九銀行の設立にも積極的に関わりました。しかし、こちらは明治42年に経営が悪化し、解散となりました。この件は、蜂須賀家にも手痛い損害となり、必ずしも全ての事業が大成功を収めたわけではなかったようです。

 大正7年(1918年)2月1日、茂韶は73歳で亡くなります。政府からは、生前の労をねぎらい、従一位、勲一等旭日桐花大綬章を授けられました。茂韶は今、徳島市佐古山町の万年山墓所に眠っています。

蜂須賀茂韶  出典:Wikipedia

おわりに

 小六の後の蜂須賀家は、無事に幕末・維新期を乗り越えて、明治期もなお、歴史の表舞台で大活躍していました。その当主・蜂須賀茂韶の人生は、多彩で多忙で、一人の人間の生涯とは思えないほど情報満載です。

 茂韶の足跡を辿ると、華やかさだけでなく、幕末期から始まるキャリアの中で、一つ一つの経験が丁寧に、地道に、重層的積み上げられていった印象を受けます。11代将軍・家斉の孫であるという、圧倒的なステータスを持ちながらも、それを七光りに終わらせない、有能さ、スマートさ、そして堅実さを感じさせる蜂須賀茂韶。同時代の人々を大いに魅了した人物だったことでしょう。

 では、今回はここまで。次回をお楽しみに!


【参考文献】

・八幡和郎著、「ビジュアル版 最後の藩主 ―四七都道府県の幕末維新」、光文社、2004年

・八幡和郎著、「江戸三〇〇藩 最後の藩主 うちの殿さまは何をした?」、光文社、2004年

・河合敦著、「殿様は『明治』をどう生きたのか」、洋泉社、2014年

・人文社編集部編、「歴史ハンドブック 幕末・維新 全藩事典」、人文社、2011年

・新人物往来社編、「幕末維新 最後の藩主285人」、新人物往来社、2009年

ほか


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